2015年4月6日月曜日

ナイル・ロジャース、ダンスミュージックの帝王


ナイル・ロジャースは1977年、ベーシスト、バーナード・エドワーズとファンクバンド、シック(Chic)を結成。二人はヒット曲を連発し世界中でディスコ・ブームを巻き起こす。ナイルとバーナードは最高のパートナーでもあり親友でもあった。

80年代に入ると二人はシックの活動以外にそれぞれのソロアーティストとして、さまざまなアーティストのプロデュースを手掛けるようになる。ナイルは1985年に年間チャートナンバー1のプロデューサーになっている。

90年代に入っても二人はシック、そしてさまざまな音楽シーンで活躍する。親日家としても知られ1996年に行われた武道館での2人のパフォーマンスに観客は熱狂した。しかし、この日のステージがバーナードの最後となってしまう。公演後、バーナードは宿泊先のホテルの部屋で遺体として発見される。

14歳未婚の母のもとに生まれる


ナイル・ロジャース、1952年ニューヨーク生まれ。ナイルを生んだとき母親は14歳であった。14歳、そして未婚の母親に子育ては無理だった。ナイルは貧しく、いつも一人だった。ナイルが8歳のときに母親が連れてきた白人の男性がナイルの父親になる。「ナイルのパパは白人だ」学校で囃し立てられ初めてナイルは自分が黒人だという意識を持つ。父親となじめなかったナイルはその後家を出してしまう。

ナイルにとって信じられるものそれは音楽だった。ギターを手にストリートで弾き語りを始めたナイルは考えた。「そうだバンドを組もう」ナイルは知人に紹介された人物に電話を掛ける。「はじめまして。僕はナイル・ロジャース」相手の男はバーナード・エドワーズと名乗った。ナイルは自分の描くバンドの構想を熱く語った。しかし、全く話はかみ合わなかった。チェロやフルートが入るようなロックをやりたいと話すナイルをバーナードは頭がおかしいんじゃないかと思ったという。この後二人が連絡を取り合うことはなかった。


バーナード・エドワーズとの奇跡的な出会い、シック結成


それから数ヵ月後、ナイルは偶然一緒になった見知らぬ男のベース・プレイに魅了された。そしてこのとき、そのベーシストも隣でかき鳴らされるギター・プレイに心を奪われていた。意気投合した二人は演奏を終えると言葉を交わした。「バンドをやろう。僕はナイル・ロジャース」「僕はバーナード・エドワーズ」

僕らは意気投合した。でも二人とも以前に電話で話した相手だったとは思わなかったんだよ。なんて説明すれば良いか分からないけど、マジックという言葉が良いのかもしれない。初めてあった晩に彼の演奏は魔法みたいで、そんな音はそれまでに聞いた事が無かった。だから一緒に音楽活動を始めてオリジナルなものを考え始めた。それがシックだったんだ。初めて書いた曲が「エヴリバディ・ダンス(Everybody Dance)」だった。僕たちがどんな演奏をするかを表しているね。

貧困や差別に悩んでいた少年は生涯の友と出会うことで人生を一変させる。「エヴリバディ・ダンス」この楽曲に象徴されるディスコ・ナンバーはヒットチャートを席巻し、ナイルとバーナードのバンド、シックはヒットメイカーとなる。

シック 「エヴリバディ・ダンス」


80年代、プロデューサーとしてヒット曲を連発


80年代に入ると二人はシックの活動以外にそれぞれのソロアーティストとして、さまざまなアーティストのプロデュースを手掛けるようになる。ナイルは1985年に年間チャートナンバー1のプロデューサーになっている。

デヴィッド・ボウイ 「レッツ・ダンス」(1983年発表 全米チャート1位)

マドンナ 「ライク・ア・ヴァージン」(1984年発表 全米チャート1位)


親友バーナードの死、1996年日本武道館公演後の悲劇


1996年4月、シックはコンサートで来日。その日本でバーナードは他界した。15年前の武道館。この演奏の2日後、バーナードは宿泊先のホテルで遺体として発見される。1990年、バーナードは自分が癌にかかっていたことをナイルに告白している。病を克服した友。しかしその友の変わり果てた姿を発見したのはナイルであった。

ショーが終わった終わってホテルに戻ったときに彼を見たのが最後だったよ。ドアを開けた時、本当に一瞬で、一秒くらいでわかったよ。僕は彼がこんな感じでベッドに横になってTVを見ているのを見つけたんだ。裸足で彼の足の裏には血が溜まってた。そこで血は止まってたよ。バーナード!バーナード!って叫んだんだ。彼の肩を揺すってみたけど、すでに死後硬直状態になってたから体を横に揺すると身体全体が揺れたんだ。

バーナード・エドワーズ、享年43。肺炎による合併症。それがバーナードの死因であった。亡くなった友人への追悼の意味を込めて、ナイルは毎年4月に来日しコンサートを行っているが、東日本大震災があった年は多くの関係者が日本に行くことを止めた。震災の直後であり、原発事故も起きていたからだ。

バーナードの15年目のメモリアルを日本ですることが大事なんだ。地震や津波や放射能が理由で行かないという事にはしたくなかった。バーナードなら来て欲しいって言うだろうし。



2000年代、人気ゲーム「Halo」のサントラを手掛ける

Xbox最大のヒットになったテレビ・ゲーム「ヘイロー」。ナイルはこのサウンドトラックをプロデュース。シリーズ3部作は累計2460万本の大ヒットとなり、ナイルは数々の賞を受けている。ロック界でファンキーなサウンドをつくり続けてきたナイルが50歳を過ぎてから取り組んだゲーム音楽。しかし、意外なことにナイルとテレビゲームには昔からちょっとした繋がりがあった。

昔はレコーディングスタジオで、くたくたになるまで夜通し働いたものさ。だからゲームセンターに行った。ビデオゲームの音楽は、ファンクの音から完全に僕たちを切り離してくれたんだ。そうやって少しの間ファンクを忘れ、その後スタジオに戻ってまた集中する。


2011年、ガンの宣告

自伝の出版、日本でのコンサート、そしてブロードウェイへの夢。多くのプロジェクトが進行するなか2010年秋、突然ナイルを悪夢が襲う。

イタリアに行くために部屋の外に出ようとした。すると電話が鳴った。医者が言うんだ「ナイル。話がある」「これからイタリアに行くんだから無理だよ。帰ってからにしてくれ」と言った。すると医者が「駄目だ。今すぐに話さないと。かなり悪性のガンが発見された」ってね。「第一段階が治療可能で第四段階は完全に手遅れだとすると、もう第三段階の相当ひどいところまで来てるよ」と言われたんだ。

バーナードと同じ病、ガン。ナイルは前立腺の全摘出手術を受けた。

ギターを弾いていても腕に力が入らない。ピックが持てないんだ。病気のことを考えると身体が震えてくるんだ。病気のことを話すと怖くなった。何年も前からブロードウェイミュージカルの企画を温めていた。時間をかけて自伝も書いていたんだ。でも全部がいったん中止になった。そこで僕は、とにかくもう一度日本に行くことに集中することにしたんだ。今年は僕のパートナーであった大親友が亡くなってから15年目の年だからね。日本で今年の4月にライブをやる機会を逃すわけには行かなかった。

来日したナイルは4月12日-18日、6日間12ステージをやり遂げた。

2013年、ダフト・パンクのアルバムに参加、「ゲット・ラッキー」のヒット



ナイル・ロジャース、人生を語る

僕は立ち止まらない。昔も今もディスコ・スピードで歩き続ける。それが僕だから。そしていつまでも夢を追いかけて行く。人生いいことも悪いこともあるさ。夢を持って歩き続けよう。
今の僕の人生の見方は面白いことに自分がする一つ一つのどんな小さなことでも、すべてとても重要に思える。なぜなら、僕の人生の一日を僕のやりたいことと交換しているんだからね。食べ物はおいしいし、日差しは暖かいし、水も前より気持ちよく感じる。自然のものにはサイクルがあって、僕の周りの自然がそのサイクルをみせてくれる。夏が秋に変わるのをまた見られるって素晴らしいことだね。できれば秋が冬に変わるのも見たいね。そして冬が春に。春には日本に戻るからね。



ナイル・ロジャースの公式ブログでWOWOWで放送された「ノンフィクションW ナイル・ロジャース ~魂のスタートアゲイン~」を見ることができます。
http://nilerodgers.com/blogs/planet-c-in-english/1531-every-emotion



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