2015年5月26日火曜日

サマソニ2015日曜トリのファレル・ウィリアムスとは?【前編】


2014年に最もシングルをヒットさせた男、ファレル・ウィリアムス。

2014年、8年ぶりにソロアルバムを発表し、シングル「ハッピー」は全米10週連続1位を記録。

第56回グラミー賞では最優秀プロデューサー賞などダフト・パンクと共に計4冠を獲得した。

2015年のサマーソニックの日曜ヘッドライナーを務める、この男に迫る。

運命の出会い(1986年~1995年)


ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)。1973年4月5日、3人兄弟の長男として生を授かる。米バージニア州バージニアビーチで幼少期を過ごした。
俺が住んでいた家はちょうど"ザ・レゲネーズ"っていうバイカー連中がたまるクラブが向かい側にあったんだ。連中はロックばっか聴いてたよ。向かい側から大音量で聞こえてくるんだ"ボーン・トゥ・ビー・ワイルド"なんかの曲がね。
一方、俺の家では、両親がアース・ウィンド&ファイアーを聴いてた。それでもラジオではリック・ジェイムスやクイーンがプレイされてた。この多様さは今でも俺の内部に浸み込んだままだね。

  影響を受けたアース・ウィンド&ファイアーの代表曲「セプテンバー」


1986年、ファレルが中学生のとき、音楽の優秀な生徒が集まるクラスで運命の出会いを果たす。その後、プロデューサーとしてタッグを組むチャド・ヒューゴ(Chad Hugo)との出会いである。 2人はすぐに意気投合。若干15歳にしてオリジナル曲の制作を開始。「音楽を通じて何か成し得たい。」バンドを組み、ミュージシャンを夢見て、その才能を磨いた。

その後、高校に進学した彼らは1992年、文化祭でステージを共にする。それが80年代後半に一世を風靡した"ニュージャックスウィング"の生みの親として知られるテディ・ライリーの目に留まった。テディのプロデュース業をサポートするようになり、テディの弟を含むラップデュオ、レクスン・エフェクト(Wreckx-N-Effect)やブラックストリート(BLACKstreet)など数多くの作品に参加。アーティストを手掛けるというプロデュースワークに目覚め、楽曲制作のいろはを学んだ。

そしてついに、ファレルとチャドは楽曲プロデュースを任され、独り立ちする。プロデューサーチーム、ザ・ネプチューンズ本格始動である。ネプチューンズを名乗り始めるのは1993年頃。水に関するものに興味があったことから、水の神様であるネプチューンを自分たちのユニット名に冠することになった。ファレルいわく「水は流動的だから、どんな音楽でも作れるという自分たちのポリシーにぴったりと思った」とコメントしている。


注目される存在へ(1996年~1999年)


1996年、2人はヒットメイカーとしての第一歩を踏み出す。90年代R&BシーンをリードしたSWVの「ユーズ・ユア・ハート」。初めてネプチューンズの2人が手掛けたこの曲は全米シングルチャートで22位といきなりヒットを記録したのであった。

さらに1998年、一気に頭角を現す。ブロンディの「ハート・オブ・グラス」をサンプリングしたノリエガ(Noreaga)の「スーパーサグ」。これまでにないリスナーを引き付ける攻撃的なビート。クラブDJがこぞってノリエガの曲を流し、結果、ネプチューンはクラブシーンで一際注目される存在となっていった。


初めてのプロデュース作品、SWV「ユーズ・ユア・ハート」


頭角を現したノリエガ「スーパーサグ」



先鋭的なサウンド(2000年~2001年)


ここからネプチューンの快進撃が始まる。

2000年、ヒップホップ界を代表するアーティスト、ジェイZが新鋭のネプチューンズをいち早くプロデューサーに抜擢。ファレルがフィーチャリングアーティストとして参加した「アイ・ジャスト・ワナ・ラヴ・ユー」は時代の潮流の一歩先へゆく楽曲となった。そして初めての全米シングルチャートで1位に輝いた。それ以降、ファレルのヴォーカルはユニークなビートと共にネプチューンズとトレードマークとして認知される。

初の全米1位、ジェイZ「アイ・ジャスト・ワナ・ラヴ・ユー」


ネプチューンズが台頭してきた90年代後半は、ヒップホップ全体のサウンドに、ものすごく大きな変化が訪れた時期。そうした動きの中心になっていたプロデューサーが、ジャスティン・ティンバーレイクとのコラボでも知られるティンバーランド、アリシア・キーズの旦那のスウィズ・ビーツ、それとネプチューンズ。この3プロデューサーだった。それまでのヒップホップというのは、基本的に古いソウルやジャズのレコードをサンプリングして、トラックを作っていたが、彼らはそういったサンプリングは一切行わずに、打ち込みだったり、楽器を用いたりして楽曲を作っていた。その中でネプチューンズのサウンドは、ノリエガの「スーパーサグ」でも打ち出されているように、ビートの過激さが特徴だった。これは元々ドラマーだったファレルのセンスが強く反映されている。

ネプチューンズが生み出すトラックは一般的に、ファレルがビートを作り、チャドがメロディを付け、2人で肉付けし、完成させる。先鋭的だった彼らのサウンドは、ジャンルの垣根を越えた音を重ね合わせるといったものだった。この独特の音楽性は「ネプチューンズ・サウンド」と呼ばれ、2人はその後、世界から注目を浴びるようになる。

それまでヒップホップやR&Bのプロデューサーは基本的にその枠からはみ出て仕事をすることはなかったが、ネプチューンズの場合は、ヒップホップ、R&Bはもちろん、ロック、パンク、ミクスチャー、ポップス、レゲエまで手掛けて、なんでもうまくこなすことが出来た。それが彼らが成功した要因となっていた。


世界のヒットメイカーへ(2001年)


ネプチューンズはそのフィールドをさらに広げ、今度は世界を熱狂させるボーイズグループ、インシンクがネプチューンズをプロデューサーに指名。2001年、世に送り出した曲「ガールフレンド」。流行に敏感であったメンバーのジャンティン・ティンバーレイクが、ネプチューンズに惚れ込み、実現。ジャスティンは後に語った。
あの時のセッションがどれだけ自由で楽しかったか。ぼくはもう忘れられないよ。決まりもなんにもなくてなんか自分を高揚させてくれる笑いと音楽ばかりが、山のように生み出されていったんだ。

プロデュースはポップシーンへ、インシンク「ガールフレンド」


続いて、新たなポップ界の中心として君臨していたブリトニー・スピアーズを手掛ける。当時、白人のポップシンガーが殆どやっていなかったアーバンサウンドに挑戦した「アイム・ア・スレイヴ・フォー・ユー」。ネプチューンズによってブリトニーは、これまでのポップアイドル路線と一線を画す大人の女性へと変貌を遂げた。これが全米4位を記録。ここ日本でも1位に輝くなど世界各国で大ヒット。


ブリトニーの脱アイドル作品「アイム・ア・スレイヴ・フォー・ユー」


これを機にネプチューンズが生む先鋭的なサウンドは、ポップミュージックのトレンドとなった。

インシンクやブリトニーがネプチューンをプロデューサーに起用したことは、以降のポップミュージックに、ものすごく大きな影響を与えた。これをきっかけにして、アイドル的な立ち位置のシンガーやグループがヒップホップの最先端の音を積極的に取り入れるようになった。今だとケイティ・ペリーやマイリー・サイラスが、ヒップホップの人気プロデューサーと仕事をするのが当たり前になっているが、その原点は、このブリトニーとネプチューンのコラボにあった。


サマソニ2015日曜トリのファレル・ウィリアムスとは?【前編】
http://kkssskk.blogspot.jp/2015/05/2015_26.html

サマソニ2015日曜トリのファレル・ウィリアムスとは?【中編】
http://kkssskk.blogspot.jp/2015/05/2015_31.html

サマソニ2015日曜トリのファレル・ウィリアムスとは?【後編】
http://kkssskk.blogspot.jp/2015/06/2015.html


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